本日は私の母自慢をさせてください。
最初に申し上げておきますが、かなり長文です。ごめんなさい。

「なんでいきなり母自慢?」

そうですよね、私でもそう思います。
きっかけはLinkShareのベストレビュアーコンテスト に参加してみようかなと思ったこと。要綱を見ると参加13社からそれぞれ商品レビューや提起された課題について書くということのよう。
13社の課題のなかで私にとって一番書いてみたいな、と思ったのが
e87.com (イイハナドットコム)さんのお題である
【2007みんなのお母さん自慢ブログコンテスト】
だったんです。
ということで、本日は私の母自慢にお付き合いください。


母はいま、67歳。

母

「お母さんはね、もういつ死んでもいいの。やりたいことは全部やったの。
 だから、これから生きてる時間は神様からの贈り物で、みんなのためにできるだけ使いたいの。」


これが私の母の口癖。
ここでいう「みんな」は「家族」のことを言っています。
母の両親(つまり私の祖父母)は母が中学生のときに50代初めに立て続けに亡くなっていたので、母自身50を過ぎて長く生きていられると思わずにいたよう。
上のセリフを見ると、すごく殊勝なけなげな母を想像する方もおいでだと思いますが、これがまた違うんです。

自分が長生きしないだろうと思ってきた母は、ホントに精力的にやりたいことに取り組んで現在を迎えていて、その上での上のセリフなんです(笑)


うちの父は、その年頃の男性がみんなそうだったように会社第一人間。
つい最近まで、「休みの日には寝巻き姿で寝転がっていて、テレビのチャンネルさえ自分で変えない」タイプ。
そんな父なので、子育てにも「作るとき以外」一切協力無し(笑)。
もともと家でおとなしく主婦をしているタイプではなかったのですが、さすがに私たちが小さい頃には外に働きに行くことは諦めていたようです。

その分、小さい頃は一緒にいられる時間が長くていろんな話を聞かせてもらうことができました。

「親なんていつまで生きてるかわからないんだから、手に職をつけなさい」
「自分のことは自分で責任を取れるようにしなさい」

そんなことを年齢に応じた言葉でずっと言い聞かされていた気がします。

自分では覚えてないんですが、中1のときに私が母に言ったらしいです。

「自由って責任がついてくるんだね」

これを聞いて、母は自分の教育は間違っていなかったわ、と
「してやったり」だったようです。

私が6年生、弟が2年生になるとうちを拠点に出来る学研の教材配達を始めました。なぜか私も一緒について回っていて、やがて数ヵ月後には、
これまたなぜか私がメインで教材の配達していました(笑)

母の下請け、ですね(笑)
もちろんそれなりに報酬は「お小遣い」としてもらっていたのですが、いわゆる労働とその対価としての報酬を教えてくれたのは母でした。

弟が中学生になるタイミングで「外に出る」と決めた母。
父がいい顔をしなかったのですが、「子供が小さいうちは我慢してただけ」
と、ささ~っとパートを決めてきました。

これがですね、子供心にすごいなと思ったのが、近所の同世代のおばさんたちが当時時給480円くらいで工場とかで働いていたのに、母はあっという間に時給800円で自分がやりたいと希望していた時間で仕事を決めてきたこと。当時、40過ぎたころでしょうか
「手に職を」
と私に言い続けていた母は実は、マッサージの国家資格を持っていたのでブランクが15年くらいあったにも拘らず、自分の希望通りの仕事を見つけてきていたのです。

わが母ながら、かっこええな!って感じでした。

仕事を始めたからと言って、家事に手を抜くわけじゃなくて、当時はそれは
「勝手に働き始めたんだから当たり前」とか思っていたバカ娘の私ですが、自分が子持ちで働くようになって、その当たり前のはずのことが出来ない自分に気づくと、そのときの母のすごさをシミジミ感じます。
もちろん、父の手伝いは一切無し。でも、家は母が働いていないときとなんら変わることはありませんでした。

私が大学に入ると、写真を専攻していたこともあり一人で北海道に1ヶ月くらい撮影旅行に行きたいと言い出したときのこと。
普段は子供に無関心な父が「女一人でなんて危ない」と大反対。
そんな父に
「そんなこと言ってたら、この子はどこにもいけなくなってしまう
「この子がそのためにバイトでお金を貯めてがんばってきたんだし、この子の人生なんだから好きにさせたらいい。私が責任を持つ。」

と言って、説き伏せてくれたのも母でした。
あの時、自由に外に出してもらえなかったら・・・・私の人生は全く違ったものになっていただろうなぁ。

大学時代は、その後北海道旅行を数回、だんだん慣れてきた頃に卒業旅行にヨーロッパへ1ヵ月半、と言う話を出したら、母は大喜び。
「お母さんは勉強が嫌いだったから、英語も出来ないし一人で海外なんて行けないけど、あんたは行けるんだからチャンスは逃さず行きなさい」
と、これまた信じられないほど反対していた父を押さえ込んでくれた。

後から聞いた話だけど、北海道旅行のときもこの卒業旅行のときも
私になにかあったら父と別れる決意で説得してくれていたよう。
(うちの父、しつこいので私が怪我とかでもしてきたら一生母が責められるようなことになりそうなタイプなんですよ)

そして、私の就職と共に、転職。
今度は地元の大きな病院の整形外科、それも正社員としての転職です。
当時50歳。
わが母ながら、たいしたもんです。
「手に職を持ってるってすごい」って、体現してくれていました。

そして、就職して数年。私が海外旅行にはまる時期がきました。
そのころ、私は年に数回、海外に行っていたのですが、ある日冗談で

「お母さんも、自分でお金出してついてくるなら連れてくよ」

言ったとたん、返って来た言葉は

「で、いつから、どこにいく??」

でした。
うわ、まじ・・・?と思ったものの、行く気満々の母。

「貧乏旅行だから、安い宿にしか止まらない」

「お母さんの体力を気にして、結果として行けないところが出るのは嫌だ からきちんとついて来る事」


この二つを言い聞かせて、母と海外へ。
最初に行ったのはどこだったか・・・?
ニューヨーク、オランダ、ドイツ、パリ、ロンドン、イタリア、ロシア、インド、ネパール、香港、トルコ、エジプト・・・etc。
そうだ、最初のたびはマイレージを稼ぐためにアメリカ回りでヨーロッパ。
ニューヨークでは私はヒーヒーで先に根をあげそうになったけど自由の女神の冠までのぼってきました。
オランダではアンネの家に行き、しみじみしたその足で飾り窓に迷い込み、
「マネキンが動いた~」とビックリ。
ドイツでは、ベルリンの壁に感動し、パリでは、植木等が映画で飛んでいたと言って凱旋門の下で大の字ジャンプ、モンマルトルでは裕次郎の映画を回想してうっとり。
ロンドンでは、たまたま良いホテルに安く泊まれて2人で幸せに浸り、イタリアではローマの石畳を歩くの閉口する私を横目で笑い、ベネチアでは、運河から見える満月に感動し、ロシアでは、「もしやネコの肉?」と思うような肉を食べ、夜のグレムリンにこれまた感動。
インドでは空港で野宿(←60前の母親にさせるなよ!自分)、往復数百キロのタージマハル見学、バラナシでの朝日。カトマンドゥでは数百段の階段をのぼってのお寺見学(私のほうが先にばてた)、トルコでは人の親切さに感動、オリエンタルエクスプレスの乗客の定宿ペラパラスホテルに奮発して泊まって、ジャクリーヌ・オアシスが泊まったという部屋に感動。
エジプトは、日本人のハネムーンツアーがバスに乱射されて大騒ぎになった直後に同行。ボロホテルの今にも泊まりそうなエレベーターに一緒に旅に出るようになって初めて「怖い」と言ってたっけ。ピラミッドをじかに見て、らくだに乗ってヒーヒー。夜行に乗って、カルナック神殿にため息。
2人で、もう書ききれないほど楽しんだ。
いい歳の癖に「疲れた」と言わない母。毎晩、宿ではすごいイビキで(笑)
日中すごく動き回ったある晩、深夜イビキをしていない母に気づき、
「疲れすぎで死んじゃった!?」とあせったこともあったっけ。
とにかく楽しむことが上手な母だった。その精力的な楽しみ方にいつしか尊敬すら覚ったけなぁ。

私にとって、母は最高の旅友になった。
ツアーで行った旅はひとつも無くて、飛行機以外はすべて現地で手配。
夜行電車、夜行バスは当たり前。
「ツアーじゃこんな場所(現地の人の市場とか観光地じゃない町とか)には
こられない、フリーが楽しい」

そういって、いつもついてきた。
母は全く外国語を話さないが、なぜか現地の人とコミュニュケーションをとって楽しんでいる。母の写真集が出来そうなくらい旅の写真も撮ったっけ。(母が私を撮った写真はみんなピンボケ(涙))


私の結婚が決まって、ちょうどその時期に母が退職。
「世界一周でも行っちゃう?」
なんて、言ってたらあっという間に妊娠で世界一周はパー。
(あ、妊娠は私で母じゃありません)

母の退職にあわせたかのように妊娠、出産。
100km超と言う距離にありながら、本当にマメに手伝いに来てくれて、
ともすると閉じこもりがちな育児に気が滅入りそうな私を救ってくれた。

実は私、長男を産んだ後に結婚式をして、お決まり通り、育ててくれた父母への感謝の言葉というやつをやりました。
前日、いろいろ下書きをしていたんだけど、当日はどうしてもそのときの気持ちで話をしたくて、結局下書きとは全然別の話をしてしまっていました。

「自由に育ててくれて本当にありがとう。
そして、外で自由にしている私にとっていつでも心の中の
『帰ってもいい場所』として、いてくれてありがとう。
私も自分の子供にとって、そういう場所になれるようになりたい」


と。

「親はいてくれて当たり前、子供に尽くして当たり前。」
ひどい話だけど、独身のとき私はそう思っていた。
でも、自分が子供を産んで、親の、特に母のありがたみがすごく感じられるようになった。
そして、母の生き方、考え方が自分に染みこんでいるのにも気づいた。
早くに親を亡くした母と、いい歳していまでもどこか親がいることに安心を感じている私とじゃいろんなことに根本的な差があるんだろうけど、でも、やっぱり親子。考え方も行動も良く似てる。

世代や時代の差があるので、正直なところ
「母みたいになりたい」
とかは思っていないけど、

「母の人生は面白かったろうな、人生に悔いはないだろうな。」

といつも思う。


情けない話だけど、年々衰えてくる母を見ていて、いつか母がいなくなる日がくることを思うといまから切なくなってくる。
いつか必ずそういう日は来るだろう。
そのときはきっとどうしようもなく泣くんだろうなぁ、自分。。。。

まだまだ元気だけど、でもちらほらと「血圧が高い」とか「目の調子が悪い」とかそんな話も聞くようになった。


生きてるうちにしか親孝行できないもんね。
今年は久しぶりに(←こんなに感謝してるのにいつも母の日スルーしてました、ひどい私)母の日に何か贈ろうか。

何が届いてもすごく喜んでくれるだろう笑顔を想像しつつ。

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うわ・・母自慢じゃなくて、、母へのラブレターみたいになっちゃったような。
長生きしてね、元気なかーちゃん!!

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先日、LinkShareの見本市でe87さんの説明をいろいろ聞いたのですが

プリザーブドフラワー iconがすごく人気があるとか。

長持ちするし、発色も良いし、なによりきれいです。


ただ、今回、私が気になったのは下の2つでした。

リース
ドライフラワー「ラブリーマム」

かわいいですよね~。
商品名が70近い母に贈るには何ですけど・・・。
うちの実家、玄関が殺風景なのでこんなの飾るとパッと明るくなるかも。

それと
カーネーション

見本市で聞いた説明ではかなり人気の商品とのこと。
これ、花の色がオレンジからミルクティー色に変わっていくのが楽しめる
カーネーションだそうです。実は見本市当日は残念ながら照明の関係で枯れる前のピンクのカーネーション?って感じだったのですが、サイトで確認すると上品な色です。↓  
鉢植えだから長持ちするのがいいですよね。


e87.com さん、5/11(金)11:00まで母の日の贈り物の注文を受け付けてくれています。
ズボラな私にはギリギリでも間に合うのが嬉しいです。

e87.com(株式会社千趣会イイハナ)

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